時をかける少女を見た。

映画のときは話題を聞いていきたいなあ、と思いつつも、話題になっている=混んでいる ということでついつい足が遠のきいかんかったのだが、祝DVDということで鑑賞・・・
ううむ・・・正直に言うと、面白いとは思うし、よく出来ているとは思うが、あのBlog界隈の「熱狂」に関してはよくわからないなあ(ソコまでハマれるのか?)、というのが実感。やはりスクリーンで見ないとダメなのか?
今30代、昔帰宅部だった男子青春に理想の女の子を!
というのがコンセプト?
やれ、内容については触れていないBlogが大半だったのだが、素直に「真琴好きだぁぁぁ!」と言えない照れがそうさせたのか?

真琴がすごくいい子だということは非常に共感できるんだけど、一方で物凄い違和感を感じる。まず、
・女子グループに属していない
・野球(=男の遊びの暗喩?、しかも部活動じゃない)に喜んで付き合ってくれる
・つっぱしる女

女子グループに属さず、帰宅部男子の遊びに付き合ってくれる気楽な女の子、そんな奴ぁいねえ!と言いたくなるが、だからこそ真琴が必要だったのではないか。

いちおう現代的アイテムとして携帯電話が登場するが、使われ方は非常におざなりでアチコチの風景も「昭和」を強く意識させるものだと思う(特に真琴の自宅生活)。真琴の「下スカート、上体操服」というスタイルも昭和(というか自分の中高生時代)では暑さしのぎとしてけっこうメジャーな着用だったと思う(最近見ないね)。ケータイどっぷりなら、あの真琴のつっぱしりっぷりは不自然だから、あくまで現代劇への言い訳程度に携帯電話は使われていると見るべきだろう。どうみても昭和の風景。

その点からいくと、さっきぶち上げた「今30代、当時帰宅部の男子青春に理想の女の子を!」というコンセプトがかなり近いのではないか、と思える。

さて、これに近い作品は・・・と思い返してみると一つ思い当たった。宮崎駿氏のオナヌー映画とまで言われた「紅の豚」である。そういえば鑑賞後の感覚も似てるよ。
立ち位置的にはフィオ=真琴、ポルコ=チアキジーナ=真琴のおばさん なんだが、共通しているのは男の照れくささを許容してくれる女たちって事。フィオもジーナも女グループに属していない存在ってところも似ているな。

フィオは飛行機大好き、女の世界に行かなくても向こうから男の世界に「来てくれる女」である。男側としては話をするのはとりあえず飛行機の話でOKだし、そこから自然と身の上話やら何やらでそれほど意識しなくても自然に「こちら側にいてくれる」のである。こういう女の子いたらいいよね、というのはまさに女の子ワールドに飛び込めない男子にとっては理想そのもの。はしたないなあ、と言いつつも自然と隙を見せてくれたり、恥ずかしい告白をしなくても「これで魔法が解けるかな」とうまく照れ隠ししつつもキスをせまってくれるともう言うことなし。

ジーナは飛行機乗りに理解がありつつもフィオのようには来てくれないけど、それでも男が照れているのを突き放さず美しいまま「待ってくれる女」。

しかも二人はとてもいい友達になった、という事も含めれば、まんまあの二人じゃね?

展開的にも、チアキが冗談めかして(照れ隠しっぽく)告白しても、なんと女のほうから照れまくってリセットしてくれるんである。なんと素晴らしい。ポルコがいくら女の子は危ないから(暗に女として意識しちゃうから)と言っても聞かずについてくるフィオと行動は正反対だが、男の照れ告白を華麗にスルーしつつもついてきてくれると言う点では共通している。

んで最後は豚になる魔法=タイムリープを解いて完了か。

ま、お話の共通性は多少こじつけちゃったけど、「来てくれる女」と「待ってくれる女」理想の女の子の構造は同じって事で。
真琴があまりにもいい子過ぎるんで、何が良いのか考えていたら冷静になってしまった。熱狂ってムズカシイ・・・