大人になった庵野監督のものがたり、つかリア充過ぎ。

ようやく「エヴァ・破」を見た。混んでいるのがイヤだったので、2週間過ぎた平日の夜に見たのである。


で、


庵野監督、優しくなったんだなあ〜大人になったなあ〜 というのが最終印象でした。


サービスいっぱいの演出に加え、アスカはツンデレ、レイは不器用デレになってるし、シンジはヒーローとして脱皮する。これだけだったら単純なキャラサービスに見える。ぱっと見た印象はそう。でもでもでも、やっぱり庵野監督ならではと思えるところがたくさんあるわけです。


以下は完全な僕の妄想です-----


まずアスカはシンジに添い寝してみたり、レイと対抗して料理修行をしたりと「ギャルゲー」みたいなことを始めるわけですが、一方で


「世間一般では他人と関わるとき、こういうことをすることが楽しいみたいだけど、本当に楽しいのかしら?」


といった「実験」しているような印象を受けるわけです。で、シンジがどうこうというよりは「無理矢理にでもそういうことを体験させてくれたミサト」に感謝し、その体験を共有するシンジたちにも仲間意識を持ったのではないか、とあのミサトとの会話で思うわけです。だからラブラブというよりは「ラブラブっぽいことをしてみたけど案外面白いかも?」という話の途中であると。


レイは弁当でラブラブになってしまう(ように見える)わけですが、あれも「シンジ大好き」というよりは「弁当をもらうってこんなに嬉しいことだから、ゲンドウにもしてあげたら喜んでくれるかも」喜ばれたら自分も嬉しいみたいな、そういう気持ちのほうが前にでている気がしますね。「ぽかぽかする」はそういう気持ちで周りをいっぱいにしてみたいという好奇心、外からみたらラブフラグにみえても、実はまだその途中の話であると。


だからどっちも「リア充への好奇心」と取れるんです僕は。「無視>うらやましい=妬み」から「好奇心」「試してみよう」への移行。その過程としてみると非常にリアリティを感じます。


で、リア充への道を歩き始めてみようとした庵野監督は「しょせんお前はオタクなんだあ!」と強烈な敵にぶったたかれるわけです。そして再び「もうエヴァには乗りません=アニメは作りません」と閉じこもっちゃうわけですが、そのシェルターをぶっ壊すのがマリなんですね。


「監督不行届」を読んだあとだと、あのマリってモロに奥さんのモヨコさんに見えます。シンジに向かって「いい臭い、LCLのにおいがする(=あんたオタクだねえ、恵まれてるねえ)」って同業者の台詞ですよ。


「あれえ、エヴァに乗るのが(アニメ作るのが)イヤなヒト(オタク)がいるなんて思わなかったわ」なんてボロボロの状態のマリが平然と言うわけです。


「なにやってんだよ!キミのほうがずっとボロボロじゃないか!」と自分がボロボロだと思っていた監督=シンジ君を掴んでマリは強引に外の世界を見せてくれるわけです。「あーあ大変だねえ」って。


リア充どもで満ちあふれていると思っていた外の世界はもうとっくにボロボロで、決して幸せに満ちあふれてなどいませんでした。そんなものは自分の幻想に過ぎなかったのです。そして零号機=初代エヴァはパクっと食われちゃいます。どうもあれね、角○とかがエヴァを食い荒らしている暗喩にみえてなりません(学園エヴァとか・・・)でもまだ僕はエヴァに乗れるじゃないか!(アニメを作れるじゃないか!)と再び立ちがあります。


そして圧倒的な力で綾波エヴァという作品)を取り返し、幸せハッピーエンド〜と思っていたところへ


プスッ


ですよ。プスッ。


もうなんというかね、庵野監督物語ですよ、あたらしいエヴァも。たぶん。それを「一般ウケ狙いのようなストーリーに仕立てなおす」狡猾さはまさに大人の証です。


そしてシンジ君に「僕には何が大人なのかわかりません」と言わせてくれた。もうこれはQをワクワクしながら待つしかありません。


一方で「もう俺は子供さえ喜ばせられればいいんだ。オタクは無視」と「児童向けアニメに特化しようとしたらクトゥルー神話になってしまった」某監督みたいな超天然さんもいるわけで、やっぱり一筋縄ではいかない面白さに世界は満ちていると思わせてくれる逸品でした。







って一応書いたけど






やっぱり「クル」「刺さる」ものはなーんもねー
ゾクゾクするような殺気も恐怖もなにも感じられない。
もう自分の存在を心配するような状況じゃないんだろうな〜。

ビースト化してヒトじゃなくなったマリがシンジに噛みついて
「やめてよ!さっきまであんなに・・・」
「フシュ〜フシュ〜」
まったく言葉が通じないぐらいしてくれないとねえ・・・

面白いとか言ってるヤツ、そこは「リア充氏ね」って言うところだろ・・・