体調が良い話

今週のお題「ねむい」

厄年を迎えてからわりと最近は体調が良い。といっても爽快なわけではない。寝込んだりしないだけだ。
自分でもかつては「健康の話題が日常の半分になったら危険シグナル、健康病」と言っていたがまさにそうなりつつある。

もともと体が丈夫な方ではなかったが、死んだ祖母の名言「一年365日、本当に体調の良い日なんて3日ぐらいしかあるもんじゃないんです。細かいことグダグダいいなさんな!」(ってばっちゃが言ってた)で、いまでも精神的に安定しているのだと思う。おかげで「毎日健やか!」みたいなTV番組を見ても「ケッ!」としか思わない。健康商法に惑わされることもない。スポーツ選手だって「コンディションがどうたら」って言ってるが、まあ近いことだと思う。といってもバリウムの検診はあるし、CTも撮ったし、内視鏡検査もしたし、医者は結構行くし、なにも心配がないわけではない。

自分にとっての健康とは「毎日健やか爽快です」の意味ではなく「まあアチコチなにかしらあるけど、とりあえず動けてます」ぐらいの意味。それぐらいのほうがプレッシャーがない。周囲の多くの人に伝えてあまり賛同が得られたことはないが(笑)

それでも最近気をつけているのは「体のシグナルを聞いてから行動する」ということ。

腹が減ってから 食べる
眠くなってから 寝る
疲れてから 休む
痒くなったら 洗う(風呂)

といったこと。

幼少の頃から「規則正しい生活をしなさい」というのは、もう聖典の如く教えこまれてきて、それこそが絶対の法則とされていたが、一方社会は「いつでも食べられる(24時間営業)」「いつでも眠れる(ベッド化、照明の効率化)」「いつでもお湯が出る」とまあそれに逆らうように便利になった。

以前は、食事の時間は自由にならなかったし、電気は夜になったらモッタイナイからと消灯された、布団を上げなければ行動すら出来ない。風呂だって沸かしたら冷めないうちにみんな入りきら無いとモッタイナイ。
これでは体のほうを生活に合わせるほかない。ここまで強制されれば体も順応しようというものだ。

しかし便利になって必然性が薄れた今もそれに合わせようとすると、体が逆らう気がする。肉体と精神の調和が崩れるのだ。

電気もテレビもパソコンもつけっぱなしにしてもセンサーでかってに切れるし、外部からのプレッシャーが弱っていて自分の内部に聞くしか無いのだ。

つかれた>ねむい のコンボは重要で、これを優先した結果、食べると風呂はもうマチマチになった。食べないとか風呂に入らないは問題なし。夜中に食べても気にしない。うっかり眠ってしまい起きたらAM3時、それから風呂入ってまた寝るとかもあり。

しかしそのほうがいまのところ快調だ。

もちろん、体のリズムそのものが規則正しくなればそれが理想だろう。
が、そうはいかないのが現代生活だと思う。

規則正しく生活すれば健康になれます というのはかなり途中をすっ飛ばしすぎだと思う。
まずは体の要求を優先し、徐々にその要求リズムそのものを規則正しくしてくように調整する、その順序でなければうまくいかないだろう。またリズムが崩れる「幅」の許容範囲を実感として知っておかなければ「生活リズム恐怖症」に陥ってしまう。眠れなければ翌日まで持ち越せばいいとか、便が出なければ出たくなるまで我慢してみるとか、そういう幅。
現代は朝食を抜いたからもうだめだとか、なにがダメなのかわからないレベルで変な恐怖感が支配しているような気がしてならない。