バイナリ配布==プログラム配布ではない、コンピュータプログラム独特の事情

またまた梅田氏近辺が賑わっているようだ。

コンピュータプログラムの特徴として「できあがったモノだけ見ても、どうやって作られたかまったくわからない」というのがある。

まだプログラムがBASICのようなインタープリタ型がメインだった頃は良かったが、バイナリ配布が当たり前になってきた今「プログラムというのはバイナリだけ遺しても、それはプログラムをこの世に遺したことにはならない」という事がそもそもオープンソースの意義だと思う。

作家が死んでも、作曲家が死んでも、棋士が死んでも作ったモノは残るし見れば理解も出来る。しかし、プログラムはちょっと違う。再現できないものなんて伝説にしかならないのです。

あえて例えるなら「耳コピがほぼ不可能な、楽器不明、楽譜無しの音楽」みたいなもの?

大きい組織であれば組織内だけで継承できるのでオープンにする必要はないかもしれないが、個人だとそれは運任せになってしまう。そして「どうせ遺すなら世の中に役に立つ形にしたいし、でもどこかの組織に独占させるのは趣旨に反する」という事であれこれ要件がくっついた結果が今のオープンソースの定義だと思う。

作家であれば本を出せばそれは遺り「パクるな」とも言える。見れば分かるから。しかしプログラムはそれを両立させることが困難で、パクられたどうかをチェックするのも大変だからそんなことに労力を裂くこともマイナスでしかない。それならばという発想の転換で「パクッてもいい、ただしパクったお前も他人がパクれるようにしろ、その方が世の中にとってプラスだ」というコンピュータプログラム独特の事情から生まれたものだと思う。

結果的にそれを利用して「こんな凄いモノはローカライズしてもっと多くの人が使えるように!」とか「良いアイデアを思いついたから改良しよう」とか、様々な派生を生んだり、多くのプログラマーを刺激したりして成果を生んできた。このやり方は最高最適かどうかはわからないけど、今のところけっこうハッピーじゃないか!クールだ!というのが現状だと思う。

本なら出版するだけでソースを出したことになるんで、それで人を刺激できる、いちいちオープンとか断らなくてもやろうと思えばいくらでもできる(やっていいかはともかく)

わざわざ「オープンソース」ということを定義せざるをえなかったコンピュータプログラム独特の事情をまったく梅田氏は理解してないんじゃないかと思われても仕方ないだろう。

それを音楽や将棋や文章と十把一絡げにして「オープンソース的なもので世の中を良くしよう」みたいに言われても、そりゃあ反発したくもなるよねえ、そう言う事じゃないんだ、そりゃ知らない外から見たら一緒くたに見えるかもしれないけど、仮にもベンチャーソフトウェア企業の役員である梅田氏ともあろう人が、と。

オープンソースは組織のプログラムにとってはそれが良いかどうかは冷静に判断するモノだろう。欧米と日本の違いはドキュメントの英語の壁と、個人に帰するプログラムの割合の違いであって「だから日本人はダメなんだ」と言われるのはちょっと憮然とせざるを得ない。