フラ・フラダンス見た。安心して見られる娯楽作…とこれが実写で出来ない邦画の凋落。

hula-fulladance.com

 

面白かった。

小気味よく、バランスが良い。

細かいところで結構手抜きを感じる絵があったりするが、それが面白さを損なうシーンではないので上手い。そのへんのジャッジに「自覚感」があるからいいのだ。

失敗して落ち込んでもすぐフォローされたり、叱責も行き過ぎない。褒める。現代で「これは不快」という要素をゼロにはしないが、加減がうまい。

往々にしてクリエイターというのはエッジを立てたくなるものだが、刺さるということは痛いということでもある。かと言ってなさ過ぎではつまらない。そこの丸め加減が絶妙である。職人らしい仕事だ。

ところどころのファンタジー要素も許容範囲におさめている。

こういうのでいいんだよこういうので…とはまさにこの作品にぴったりだ。

 

で、

この映画、アニメでやる必要があったのだろうか?

フラガール」という、ほぼ同じ舞台の昭和(が舞台の平成作品)版は実写である。

movies.yahoo.co.jp

と思うが、考えれば考えるほど、今だとアニメでないとダメだったんだろうな。と思う。

あの年代の役者を揃えてフラのシーンをちゃんと撮れるまで仕込めるのに付き合える芸能事務所はあるだろうか。ロケのためにスパーランドを抑えられるほどの費用を出せるだろうか。興行の規模から考えてこれぐらいのB級作品にそこまでやれる予算も時間も取れないだろう。

フルCGってのは実質アニメみたいなもんだ。なら役者だけ本物にする必要もない。アニメのほうがはるかに自由度が高い。

スイングガールズ」でも、ジャズ演奏を役者がやれる時間をとれたのは新人だけだったから、キャストがほとんど新人になった、ということだった。

「普通っぽい映画」ってものすごくハードルが高くなっている気がする。

 

撮りやすい映画(邦画)の要素として「キャストが少ない」「キャストが日本人で済む」「キャストのフィジカルや特殊スキルに依存しない日常生活主体」「舞台が現代でロケできる」などがあるが、これをおおよそ満たしている「若おかみは小学生」「舞妓さんちのまかないさん」ですらアニメなのだ。もはや「内容に合わせたキャストを選べる」すらハードルが高くなっているとしか思えない。

2018年4クール目アニメについてあれこれ

2018年アニメもいろいろ楽しめた。

こんだけ制作が破綻とか言われている中で、それでもどれも面白い…結果が駄作と言われても、すくなくとも面白くしようという気持ちみたいなものはどの作品にもあったと思う。

ただ流石に多すぎて全部見るのは無理。

とりあえず4クール目(9~12月)で印象に残ったものを。

 

・SSSS GRIDMAN

やっぱりこれでしょう。いろいろな歯車が噛み合った傑作だと思う。

マイトガインから鍛えられているロートルには、ラストはまあ、話たたむには仕方ないかなと思うけど、そこまでに至る道筋、特撮ヒーローからロボットアニメ、学園もの、SFといった娯楽アニメーションというものの魅力をよく一つにまとめたものだと思う。

特撮ヒーローとしては、当時の状況では逆に盛り込みすぎてまとまらなかったグリッドマンを、ある意味今になって再発見され、万全の体制でやりなおせた、という妙味。

(主に男子向けターゲットの)娯楽作品を総括的に楽しめたという点で、アニメーション作品としてなんというか、邪道なまでに盛り過ぎてるのにスッキリしているという、料理的な感想になってしまう。

背景というか、特撮箱庭世界にするんでいる人という、ビジュアル的な狙いもよかった。背景描写力がある作品は大体名作。

 

・RELASE THE SPICE

ゆる萌えの なもりキャラ でシリアスという、あるいみ「ゆゆゆ」のフォロワー的な狙いの作品だと感じた。序盤の厳しさから救いがない作品を期待していたのだが、残念ながら製作陣の腹括り不足というか、やっぱりそこまでやれないよね、というターゲットへ配慮というか忖度というか、そのへんが結局ハンパになってしまったのが残念。

やっぱりタカヒロ氏にやってもらうなら、彼が原作した「アカメが斬る!」までいかないと魅力が出ない。ゆゆゆも2クール目でだいたい救われてしまって、まあわかるけど、それはちょっと期待はずれというか(笑)

アカメが斬る!で、奇跡は起きないし、ヒロインは誰とも結ばれないし、二人しか生き残らないし、それでも「楽しかったな」のセリフで終わった、全滅エンドだとかえって得られなかった、キャラクターが、反省しつつも、救われるのではなく自らを救う神エンド。あれがいまのところ自分にとってのタカヒロ氏の頂点だよ。

富野作品の中でも、Vガンダムは死にまくりでも全滅じゃないからこそ、ラストが生きる。全滅のイデオンダンバインではある意味救われてしまっているからね。

 

・ダグ&キリル

タイガー&バニースタッフによる、あたらしいバディもの。誰一人「視聴者を気持ちよくさせてくれる上手いキャラがいない」という、序盤の見事なまでの噛み合わなさから、後半にいくに従っていつの間にかまとまっていたという、あの職場感みたいな展開はお見事。

近いのは、アクティブレイドの第一期。あれも誰が主人公なのかわからないぐらいの展開だった。

その意味ではタイガー&バニーよりある意味で大人向けというか、耐えることを視聴者に要求するタイプ。

これ難しいんだ。視聴者に要求するって。やりすぎると全部そっぽを向かれてしまうし、媚びすぎると「まあね、わかるよ」でウケても刺さらない。

このさじ加減に正解がないことが、クリエイターという仕事の永遠に向き合わないという宿命。かといってさじ加減を意識しないと永遠に刺さらない。

この1クールという尺は、実験にはやや長い。

今の1クールものはだいたいかつてのパイオニアOVAスタイルの6~7話が適していると思うんだけど、1クール単位で縛られているというところが脱出できると、アニメもやりやすくならないかなあ。

これはタイガー&バニーからの引き継ぎだと思うけど、アメリカンな背景、町並みの描写がしっかりしている作品は、そもそもの世界観がしっかりしている証。背景がいい作品はだいたい名作。

 

・叛逆性ミリオンアーサー

これは団長アーサーがFGOのジャンヌのままおバカキャラになったようなキャラとして出てきたのが楽しいという極めて個人的趣向でハマっただけだけれども。

これぐらい息抜きに向いている作品もそうそうないと思う。これでラスト締めてくれると最高なんだが。

 

・青春豚野郎はバニーガールの夢を見ない。

まあ、「泣きゲー」の名エピソードを思春期症候群という名前で総括したような日常奇跡エピソードの集合体、というのが感想。

でもよく出来ているから面白いよ。

面白いから高評価、というのとはちょっと違うけど。

ココ難しいところなんだ。僕は面白い=高評価じゃないんだ。

面白いのは必要条件であって、それにドーンと刺さる新しさみたいなものがほしい。

 

ほかもいろいろ書きたいけど、とりあえずここまで。

劇場版、若おかみは小学生!へのモヤモヤ

 ああ、これだ。椎名先生さすがです。

出来がとても良いのはたしかにそうなんだけど

「この内容でなぜここまでの品質にしなければならなかったのか、その企画の意図がよくわからないし、この品質にするべき新しい表現方法が極めて効果的に使われている、という風体でもない。ただただ高品質だけど狙いがわからない」

そう、これがモヤモヤの原因だった。

カップラーメンをものすごいクオリティで作ったのはそれはすごいことなんだけど、だからといってカップラーメン以外のモノになっているかというとそうでもない、みたいな?

TVシリーズ版、スタッフは違うし、当然劇場版クオリティではないけれども、劇場版と比べてそんなに「若おかみ」の面白さや良さを損なっているとは思わない。全然違和感はないし、最終回の停電した旅館でサイリウムを使った渡り廊下や温泉の演出、最後の天の川など(さらに後片付けが大変というオチもつく)まったくもって劇場版と変わらない面白さだった。

劇場版のクオリティと「若おかみ」のお話の面白さの連結度合いが完全に噛み合っているというわけではないのだ。絵のクオリティとお話の面白さ、それぞれの良さがあって、両方楽しめる、が、それらが噛み合ってあと一歩昇華されていたらもっとすごい作品になっただろう、というところがモヤモヤするのだ。

劇場版を見たあとに、TVシリーズ版ってそんな著名スタッフも使わず、予算も期間もなかったのに(15分☓2クールで、劇場版より遅く制作スタートして先に放映が終わっている)同じぐらい面白いって、実はすごかったんじゃ!という事がある。

コスパという言葉は使いたくない。企画の狙い、意図、手法、得られた感動、が見事に調和し、製作全体の歯車が噛み合ってハーモニーを奏でている作品を見たことへの感動、ということだ。

 例えばこれが、「この世界の片隅に」だと、今はもう見ることができない当時の風景や生活を表現するのに入念な調査に基づく高品質なアニメーションでの制作というのは、手法として最高に適していた、ストーリーに加えて、アニメーションという手法に物凄い手間を掛けたことが作品全体に全部噛み合ってきている、その感動、というのがある。(これは富野監督がうまく語っている。

https://ddnavi.com/news/358637/a/

 

「若おかみ」は良い作品である、

その成功は全然かまわないのだが、結果「視聴者はわかりやすい感動&ハイクオリティな映像が重要であって、小難しいものはいらない、こういうものを求めている」と今後、製作者が思ってしまって小難しいものが排除される方向に行ってしまったら嫌だな~という懸念がある。

 

劇場版「若おかみは小学生」の評判にみる「良いアニメ」の難しさ

p-shirokuma.hatenadiary.com

シロクマ先生がなぜかエロゲテイストを感じてしまったらしい。「痕」あたりをマイルストーンとして「地方でちょっといい感じ」の場所に「若い女性がいっぱい」はそれだけでエロゲテイストたりうるので、否定はできない。
自分としては、おっこのライバル「秋野真月」が洋館造りの踊り場テラスのような場所でくつろいでおっこを出迎えるシーン、あれはキャラクターの類似性もあって「Fate」の遠坂凛を思いっきり想起させたので、エロゲ臭、あると思います。あのシーン、あそこまで歌舞いた舞台装置である必要があったのか(笑)そういうとこだぞ!

他にも、ゲストヒロイン「グローリー水領」の占い師シーン、愛車のポルシェの描画や音までの質感、ビジュアルの見どころは実に多い。

ストーリーはもともと定評ある原作であり、おそらく子供向けに100分弱に収めるため本来のシーンを削っている感があり、繋ぎが唐突なシーンがいくつかあるが(完全版期待)大幅マイナスということはない。短いのはプラスもあるので。

間違いなく良作ではあるといえるが、本年度最高傑作!という形でてっぺん評価するのはちょっと躊躇する。

アニメーションならではの表現がやや乏しいのだ。もちろん出来は良い。アングルなども凝っている、が、写実の表現の延長であって、幽霊というアニメ向けの設定があまり生きているように思えない。鯉のぼりのシーンがそれに近いと思うが、まあ良く出来てるよね、でおおっというところがない。

監督の代表作「茄子アンダルシアの夏~」でもそういうところがあって、たしかに素晴らしいのだが、おおっというところがない。

実写のSFXやVFXのように「ここまでホンモノ」「ここからニセモノ」「それをいかに区別させないか」という苦心の区別がそもそも存在しないところにアニメというものの良さがあると思っている。

ジブリ系の監督ということで、そっちとの比較になるが、やはり宮崎さんのスゴイところはそのへんの表現であって、「そんなシチュエーション現実にないところ」と「それが何故か手触りを持ってキャラクターから見てたしかにあると感じさせる絵と動き」に自分は感動するポイントがあって、例えば幽霊というものが見えるけど触れないという固定観念でなく、おっこからは微妙に質量を感じる、みたいなシーンがあればぐっとアニメーションとして新しいなにかを加えられたんじゃないか、というところがちょっと物足りなさを感じたところ。

監督の代表作、茄子~で最後のスパートのシーンでどんどんキャラクターが線になっていくが、アニメではよくある表現であり「ああーこれでやっちゃったか」と思ったのを覚えている。

同じ限界の表現として「紅の豚」では「限界の飛行でポルコ(豚)の顔の肉が波打つ」というのがあり、本当にあんなになるのかどうかわからないが、あの顔の肉のバタつきがとても限界を感じさせる、ああいう「現実かどうかはわからないがキャラクターにとっての感覚」を感じさせるアニメ表現というかそういうところがもっとあればなあ、と感じた。

富野監督は「対比」でそれを出すのがうまい。ガンダムはキャラクターにとって確かにそこにあって触れて見上げて見下ろして存在する物体として感じさせるのがとてもうまい。だからこそアニメのプラモデルがスケールモデルと同列に並ぶことが出来たのだと思う。

この現実ではないものを、キャラクターにとっては確かに地続きの地平にあるのだ、という想像の表現にすごく魅力を感じるのだ。

まとめて見た2016第一四半期アニメ(1〜3月)

ハルチカ
ハルヒ氷菓なキャラクター。テンポがイイし(むしろ良すぎてやや駆け足感がある)、キャラクターデザインの最先端感がスゴイ。目の多重塗と唇の描画はファンタジックで頭から離れません。(はがない の時も思ったけど、もっと洗練されたアヴァンギャルド



・アクティブレイド
前半がいわゆるキャラクターのお当番制展開で、ちょっとおもしろいのかどうかわからなかったけど、一巡して主要メンバーが噛み合い始めると一気に面白くなってきました。こういう時間がかかる構成は1クールじゃもったいないと思ったら二期もあるようでよかった。


・この素晴らしい世界に祝福を
ダークホース。ひたすらギャグに徹しているおかげで息抜きにぴったり。湖に女神を浸けておく回がいちばんツボった。

転んで擦りむいたとこ〜♪
へっちゃらさすぐ治るから〜♪
※無限ループ


灰と幻想のグリムガル
鬱なんだけど仲間に恵まれているから鬱感が薄れているかな?十二国記みたいに孤独なとことん鬱からちょっとずつ仲間が増える展開のほうが救いのある鬱な気もした。


最弱無敗の神装機竜
安定の石鹸枠。もはや伝統芸のような安心の面白さ。テンポがよく特定のキャラクターのお悩み相談を延々と引きずること無くポンポンと解決していくのでリラックスできる。あえて特定のキャラクターに絞らないことでまんべんなくハーレム展開なのは石鹸枠のなかでも様式美すら感じさせる。遺跡のビジュアルが面白い。


・シュバルツスマーケン
ねえタケル、マブラブあるあるいいたいの〜!
「BETAと戦うより、仲間割れしてしまいがち」

戦術機戦のカッコよさ部分で前回のトータル・イクリプスより進化していたので飽きずに最後まで見られました。

鉄血のオルフェンズはなぜつまらないのか。終

鉄血のオルフェンズが最終回を迎えた。まあ大団円といってもいい終わり方で、勢いはあったがよくわからない終わり方をすることが多いアナザーUCガンダムとしてはキレイな結末ではないだろうか。(二期は発表されてますが)

前回のままヤクザ映画で突っ走るかとおもいきや、なんだかみんな解脱してしまったような爽やかさで、とにかくこの作品はチグハグだ。思わせぶりな台詞は全部「うるさいな」で潰されてしまうことや、それでいて鉄華団内部では浪花節がまかり通る。

なんで、こうなるか、というのは、想像ではあるが…

鉄血の作られ方(想像)

お題「今までと違うガンダム

A「任侠!」
B「冷酷!ヒーロー台詞ダメ!」
C「格闘!実弾!ビームダメ!」
D「未開開拓!」
E「女性活躍!」
F「漢!」
G「電車!プチモビ!
H「団結!打倒既得権!

総括「じゃあ○はA、△はB、□はC…な感じで…いいかな?割り振りはアレは○話…コレは△話…担当はコレなら○さん、アレなら△さん…ソレは□風でいきますか…

つまり、「お題」でみんなから上がってきた「今までと違うガンダムと思われる要素」を一通り詰めてみました、という「総花弁当」状態になってしまっているんですな。

これをうまくまとめて1本の作品としてキレイにまとめて完結させるという意味ではスタッフの手腕はスゴイと言える。それはそれで非常に素晴らしいことで、技術としては決して貶められるものではない。

しかし、1本の作品として盛り合わせや混ぜあわせがうまくいってないので、一つ一つは決してまずくないのに引き立て合わない。監督が強引ならうまくいくというものではないが、やはり噛み合ってない、咀嚼、撹拌できてない要素が多すぎる。

例えばビームを無しにしたことでビームの打ち合いはなくなったとしても、ならタイマンやケンカMSと組織で戦う要素が噛み合ってない。例えばグレイズのような量産機をだしてしまったためにタイマン格闘の必然性がすごく薄れてしまった。もともとガンダムフレームは72体、という設定があったのならば、量産MSは話にならないほど弱くして(エルガイムのA級B級のように)エースしかA級MSは乗れないようにするという手もあっただろうに(少数タイマンの必然性が出る)そんなのはガンダムらしくない!と量産機にこだわり、挙句の果てにラスボスがグレイズでは「ガンダムフレームの意味って…」となる。
(このあたり、エルガイムや、比較的最近だと「ガン・ソード」なんかはうまくやっていると思う)
(ビームを弱くした例では「ドラグナー」がある。これも「関係者ドリブン」「調整型監督(総括者)が強く感じられる作品で、シーン単位では見どころも多いのにトータルではイマイチピンとこないところも「鉄血」と似ている)

つまり、話の内容に与えられた必須お題でも世界観にそぐわなければひねってこねてごまかしてしまうのではなく、「ガンダムらしい(量産)」「ガンダムらしくない(格闘、実弾)」「スポンサーはプラモデルでガンダムフレームってのを入れるからね」といった何か芯があればスンナリ入りそうにない要素でも、要請があれば「ああ、わかりました」で素直に(ごまかしやひねりも工夫もなく)順番に入れてしまう、いや話の方をいじって適当につじつまを合わせてしまうからこうなるのである。逆に言えばオルフェンズの芯とは「来るもの拒まず」である。

このあたり「総括担当(たぶん監督だが、監督かどうかはわからないので)MS設定にはあんまり興味が無い、そのパート担当者まかせだろう」といえるのだ。

一般的にストーリーが完成する前に広報用や製作用に作られる「イメージイラスト」「決め台詞」「決めシーン」みたいなものが大量にあり、それをそのまま入れ込んだような印象である。各キャラお当番会で先にシーンが決まっており「このシーンを長回しで持ってくるためにはストーリーはこう繋ごう」的な。そこには「咀嚼」もなければ「ごまかし」もない。素直な入れ込み。

もちろん、素直だから悪いということではなく、例えばギャルゲーのアニメ化であればそれがいいということもあるだろう。だがガンダム(富野監督)というのはどっちかといえばそこに逆らい、抗い、誤魔化し、こねくり回してきたからこそ出た面白さというものが多分にある。そこへ多数の関係者の意向をストレートに取り込んでしまったようなオルフェンズはどうにもチグハグなのである。

もちろん多くの関係者の意向そのものが作品とマッチしていれば「歯車が噛みあう」作品もあると思う。だがオルフェンズにはどうにもこうにも歯車が噛み合わずガリガリし続けている印象を強く持った。この状況に陥ったであろう作品としては「艦隊これくしょん」があるだろう。

お色気担当の女優が「必然性があれば脱ぐ」というのと同じように、例え「お色気」(MS格闘)が作品を作るにあたって制作側からの詰め込み必須要素だったとしても、それをうまくストーリーに組み込むのか、たんなるラッキースケベなサービスシーンで済ませるのかではかなり違う。そういう意味でオルフェンズのMS戦は(それ自体は素晴らしい出来だとしても)ラッキースケベなサービスシーンと大差ない印象を受ける。なので「サービスシーン最高にシコ!」という評価が出てくるのは良いと思うが、やはり全体としてはチグハグなのだ。

お当番を別の言い方をすれば各キャラクター「歌舞伎、傾く」というか。「いよッ!待ってました!」的なところに各キャラクターの「キメ!」が入る。その繰り返し。芝居がかったとも言う。マンガのキャラクターっのはこう怒るでしょ、こう悲しむでしょ、こう発言するのが期待されるでしょ、こういうのはお約束でしょ、最近のはすこし悟り世代でしょ、という芝居。富野ガンダムの【リアル】とは、善悪がとか、兵器がとかもあるが、むしろこの「マンガちっくな傾いた芝居」を徹底的に排除するところから始まったのではないか。

ガンダム」はビッグビジネスであり、その関係者の数や意向というのはかなりのモノになると想像できる。御大は現在は御大故になにもしなくても声が大きくなっただろうが、逆に御大はそれが苦手な印象を受ける。自由になれば逆に話がまとめられなくなるというのはGレコが良い例だ。なにごとも「塩梅」というのは偶然に頼り続けるのが宿命だろう。

それでも後半は徐々にスタッフも手馴れてきて多少噛み合い始めた感はある。
1期のラストで綺麗に終わったことで、2期は「消化お題」があまり積み残されなかったように思えるため、それなりに仕切り直しができそうな状況にはなった気がする。たとえ与えられたスポンサー設定だとしても、それを活かすかただ組み込むだけかは総括しだい(監督かどうかはわからないので)期待したい。

鉄血のオルフェンズはなぜつまらないのか。続

正確には、「つまらない」のではなく、「なぜガンダムと合わないか」がわかったというか。

24話も見てきてやっと気づいたのだが、鉄血のオルフェンズは例の「杯」だけではなく、全体のフォーマットが終始「ヤクザ映画」そのものだ。気づかせてくれたのは3月から出てきた「セーラー服と機関銃

言ってみれば、セーラー服をドレスに、機関銃がモビルスーツ(チャカがプチモビ)に置き換えたものだ。つまり「赤いドレスとモビルスーツ」という作品だ。

「鉄砲玉用のガキが反乱起こしたところに出戻りの姐さん迎えて○○連合に殴りこむ」という話だと思えば全部すっきりピースがハマる。

盃はもちろん、途中シノギのために労働組合にチャカ流したりとか、家族を養うために組に入った奴が死んだりとか、生き別れの弟と再会したとか、敵方もまとまりがなくへんなコダワリがあって負けたりとか、ご隠居を姐さんが引っ張りだして連合でケリつけてくるわ(now)なので、当人にとっては戦争でも世間全体からみれば一部の勢力攻争でしかないため世界が〜とか言ってる割に一部の道路封鎖ぐらいで最終回が終わりそうな感じ。



基本的に【バトルマンガ】のフォーマットはヤクザ任侠と相性が良い。
勧善懲悪的というか、この場合の勧善懲悪はあくまで「主人公側」と「それ以外」なのだが、ある道徳(ルール)に従うことで相手と立ち向かう。
善悪がはっきりしてるというのは、この場合の「ある道徳」を世間一般的に受け入れられやすい「善」と「悪」としているだけで、いわゆるワルが主人公だとしても、ヤクザ任侠映画でも「本人ではなくグループなど外部にある道徳(ルール)を芯とし、それに主体的に帰属し、身内を大切にするため戦う」という行動であるならば勧善懲悪的なのである。

一方でガンダム(特に富野作品)というのは、そこが非常に曖昧だ。良く当時のガンダムを表する言葉として「勧善懲悪でない」という表現が多かったが、それは単に「それぞれの陣営に主張がある」という意味だった。
しかし、今あらためて考えてみると、むしろそれだけなら単に善悪が反転する立場を交互に描くだけだ。それだけではなく、キャラクターが必ずしも「身内も含めた外部の道徳(ルール)にあまり従わない、それによって不安定である」ことがあるのだと。つまり「勧善懲悪でない」という表現よりも「キャラクターが精神的に何かへの帰属が弱く不安定であること」のほうがバトルマンガ的に異質なファクターだったのではないかと逆にオルフェンズに気付かされた。

だいたい家族関係が良好でないキャラクターが多いし、だからといってグループの規範を全面的に受け入れているわけでもなく「しかたがなくそこにいる」が「いるうちに”それなりに”愛着も湧く」が「ひっくり返ることもある」というとにかく不安定な状態だ。そこに「モビルスーツ(をはじめとするロボット類)」がキャラクターの心象構築にある程度大きなウエイトを占めることでロボットの存在感が増す。ガンダムを操縦することが自己主張の一部という描かれ方をすることで、ただの生産兵器として扱われるリアルロボット系にもかかわらずその登場メカニックにまでキャラクター性が付加されていくわけだ。
そしてそんなキャラクターたちの個人的な事情にいつの間にか世界の行く末がかかっていたりするところに「面白さ」があるわけだ。
このあたり、むしろ鉄華団という強固な拠り所があり、世界を平定した伝説の遺産兵器スーパーロボットとなったガンダムフレームに乗って世界のために戦っているわりにイマイチ世界を巻き込んでいる気がしないオルフェンズと対照的である。

この「キャラクターが道徳的に常に不安定」で「ある特定の道徳(ルール)に全面的にはなじめない」「その不安定さをなんとかしようと言葉を紡ぐ」のはバトルマンガには非常に不向きな要素である。

だからこそ世間にうまくなじめないヲタクの心をがっちり掴んだのであるが、やはりバトルマンガとしては非常に危ういのであり、そこが魅力でもある。富野作品でも主人公キャラクターを安定方向に振った「ZZ」や「F91」「Gレコ」が他ほど圧倒的な評価を得られないのはそこにあると思う。

それでもなお「不安定な危うさ」を感じさせることもある富野作品に比較すれば、オルフェンズのキャラクターの安定っぷりはどうだ。やはり支柱(規範)がグループにあって安定しているキャラクターはわかりやすい。ランバ・ラル的に言えば「しっかりしたキャラクターだ。だがそれゆえに予測しやすい」だ。

他監督のガンダムではやはり富野作品ほどではないにせよ、また意識しているのかガンダムっぽくしようとして自然とそうなったのかはわからないが、ある程度不安定なキャラクターが多かったように思う。

オルフェンズはまったくキャラクターが不安定じゃないので、逆にモビルスーツが引き立たない。だからこその面白さもある一方で、それはありふれた面白さであり、やはり「これはガンダムらしくない」と思えるのである。

※オルガにしてもふらついているように見えて「鉄華団」という外部の芯がある。この外部の芯が視聴者から見てあまり揺るがないということが「安定」なのである。芯がない、また芯が不安定だと見ている方はホントゾワゾワして落ち着かないのだ。それが面白さに繋がる保証はなく、不安定だからいいという短絡的な構造ではない。ただガンダムらしさは出ると思う。

※盛り上がりは全然なかったが「鋼鉄の意思アルジェボルン」のキャラクターはなかなかガンダムっぽかったかなと思う。